2016年、植物の葉を見分けるAIが99.35%という精度を記録しました。
ところが、撮影条件の異なる画像を見せると、精度は31.4%まで落ちました。整ったデータの中では分かっていたはずの病気が、光も角度も背景も揃わない現実の畑では分からない。
そこで研究者たちは、畑へ向かいました。キャッサバの葉を一枚ずつ撮り直し、病理の専門家と正解を付け、古いアンドロイド(Android)端末でも動く診断AIへ作り替えました。
そのアプリが「プラントビレッジ・ヌル」です。
やがてヌルはアフリカの農村へ広がり、農家の診断を助けるようになります。しかし、コートジボワールで導入事業が終わったあとも使い続けていた農家は45%でした。
研究室から畑へ。畑から日々の農作業へ。ヌルの歩みは、AIを作ることと、現場に根づかせることの間にある二つの壁を映しています。

プラントビレッジの共同創設者デイビッド・ヒューズ(David Hughes)は、アイルランドのダブリン出身です。彼が育った国には、1840年代のジャガイモ飢饉の記憶が深く残っています。植物の病気が食料を奪い、社会全体を揺るがした歴史です。
若い研究者だったヒューズは、植物病理学者ハリー・エバンス(Harry Evans)と各地を調査しました。エバンスは、畑の植物を見て病気を見抜く膨大な知識を持っていました。しかし、そうした専門家は少なく、同じ深さの知識を受け継ぐ人材も十分には育っていませんでした。農家へ知識を届ける農業普及の体制も、地域によっては不足しています。
専門家の頭の中にある知識を、必要な人がどこからでも使えるようにできないか。
ヒューズは疫学と社会ネットワークを研究するマルセル・サラテ(Marcel Salathé)に声をかけ、ペンシルベニア州立大学(Penn State University)でプラントビレッジを立ち上げました。最初に作ったのは、作物と病害に関する知識を無償公開し、農家や研究者が質問と回答を共有できるオンライン基盤でした。
やがてチームは、世界に広がり始めたスマートフォンに目を向けます。カメラがあり、計算能力がある。ならば、専門家がいない畑でも、葉を撮れば病気を調べられるのではないか。
構想は単純でした。実現は、そうではありませんでした。
2016年、プラントビレッジが公開していた5万4,306枚の葉画像を使い、深層学習で14種類の作物と26種類の病害を見分ける研究が発表されました。
テスト用データでの正解率は99.35%。1,000枚のうち993枚ほどを正しく分類する水準です。植物病害診断をスマートフォンへ持ち込める可能性が、一気に現実味を帯びました。
ただし、画像は整った条件で撮られていました。葉は画面の中央にあり、背景や明るさも比較的揃っています。
研究チームが、学習時とは異なる環境で撮られた画像を使って試すと、精度は31.4%まで低下しました。
畑には、強い日差しがあります。影があります。土や別の葉が背景に入り、葉の向きも距離も揃いません。研究用データでは取り除かれていた「現実」が、AIの判断を崩しました。
これは計画の終わりではなく、作り直しの出発点になりました。
キャッサバ専用の診断AI開発で中心的な役割を担ったのが、ペンシルベニア州立大学のアマンダ・ラムチャラン(Amanda Ramcharan)です。国際熱帯農業研究所(IITA)のジェームズ・レッグ(James Legg)ら植物病理の専門家、モデルの学習と実装を担ったピーター・マクロスキー(Peter McCloskey)、プラントビレッジを率いるヒューズらがチームを組みました。
ラムチャランらはタンザニアのIITA実験圃場へ入り、実際に育っているキャッサバを撮影しました。4週間で集めた画像は1万1,670枚。品種や生育段階を変え、病気の現れ方の幅を記録しました。
ただ枚数を増やせばよいわけではありません。ひとつの株に複数の病気が重なることもあります。IITAの専門家が画像を確認し、学習に使う2,756枚を選び、病名を付けました。
AIの開発で時間がかかるのは、モデルを選ぶことだけではありません。現実を映したデータを集め、専門家の知識によって「何が正しいか」を一枚ずつ定める作業です。
この現地データを使った2017年の研究では、キャッサバモザイク病、キャッサバ褐条病、害虫被害などを見分ける専用モデルが作られました。
しかし、まだ課題がありました。画像全体へ病名を付けるだけでは、農家から見て、AIが葉のどこを根拠にしたのか分かりません。
チームは、単なる「画像分類」から、症状の場所を枠で示す「物体検出」へ進みました。
2019年の論文で公開されたキャッサバ版ヌルは、テンソルフロー(TensorFlow)上の「エスエスディー・モバイルネット(SSD MobileNet)」という構成を使っています。
仕組みは次のとおりです。
1. スマートフォンのカメラでキャッサバの葉を映す
2. 画像を300×300ピクセルへ縮小する
3. モバイルネットが、スマートフォンで処理できる計算量で葉の特徴を読む
4. エスエスディーが、症状の場所と種類を一度の処理で検出する
5. 疑わしい部分を枠で示し、病気や害虫被害の候補を表示する

エスエスディーは「どこにあるか」と「何であるか」を同時に判定する物体検出モデルです。モバイルネットは、処理能力と電力に制約のある端末向けに軽量化された画像認識モデルです。この組み合わせにより、画像をサーバーへ送らなくても端末上で診断できます。通信の不安定な農村で使うための重要な条件でした。
学習では、一般物体を集めたココ(COCO)データセットで事前学習したモデルを、キャッサバ画像で調整する転移学習が使われました。IITAの専門家が病気の種類を確認し、症状を含む葉へ枠を付けました。モデルはマイクロソフト・アジュール(Microsoft Azure)上のエヌビディア・テスラV100 GPU(NVIDIA Tesla V100 GPU)2基で学習されています。
一方、現場での実証端末はサムスン・ギャラクシーS5(Samsung Galaxy S5)でした。2014年発売の機種です。推論は1回50~200ミリ秒で動作しました。高性能な研究設備で学習し、農家が持ち得る古いスマートフォンの中で実行する。開発の狙いが、ここに表れています。
端末で動けば完成、とはなりませんでした。
2019年の現地実験では、学習用に近いテストデータで高かった性能が、実際の葉をスマートフォンで映すと低下しました。特に症状の軽い葉では見落としが増えました。
研究チームは、晴天時には傘で影を作り、葉の水や汚れを拭き、端末を葉と平行に保って検証しています。それでも、研究用画像と畑の映像には差が残りました。
この結果は隠されませんでした。論文は、現実の条件で評価し、実際に使うデータに合わせてモデルを調整する必要があると結論づけています。
その後の2020年の評価では、ヌルの診断精度は65%でした。農業普及員の40~58%、農家の18~31%を上回っています。さらに、1株につき6枚の葉を確認すると74~88%まで向上しました。
一枚を撮って病名を確定する機械ではない。複数の葉を観察し、農家や普及員の判断を支える道具として使う。その運用方法まで含めて、ヌルの形が定まっていきました。
コートジボワールでは、西・中央アフリカ越境植物病原体地域センター(WAVE)が2020年からヌルを普及させました。
対象となったのは、ダブー(Dabou)、ブアケ(Bouaké)、マン(Man)の3地域にある18の村です。2023年の調査では、導入事業に参加したキャッサバ農家146人に加え、IT技術者、農業普及員、事業責任者への聞き取りが行われました。
農家のキャッサバ畑は平均0.94ヘクタール。57%はキャッサバ栽培歴が11年以上ある一方、自分のスマートフォンを所有していたのは40%でした。
農家はヌルを、主に三つの場面で使いました。
– 畑の健康状態を定期的に見る:98%
– 次の栽培に使う健康な挿し穂を選ぶ:52%
– 栽培や病気への対応について助言を得る:21%
病気が疑われる株には目印を付け、収穫後、その茎を次の植え付けに使わないようにします。感染した茎から翌年の畑へ病気が広がるのを防ぐためです。
AIが病気の可能性を示し、農家が株をどう扱うか決める。診断は、具体的な農作業へつながっていました。
導入時には研修があり、農業普及員が畑を訪れ、操作を支援しました。対象者の87%が研修を受け、68%が畑での支援を受けています。
利用者と利用頻度は、当初増えていきました。
ところが、事業が終わると減少へ転じます。継続利用していた農家は45%。56%は利用を停止していました。地域別ではダブーが61%、ブアケが54%、マンが23%です。

農家が挙げた障壁は、自分用のスマートフォンがないことが65%、操作が複雑なことが41%、通信品質などの理由でアプリをインストールできないことが33%でした。事業からスマートフォンを提供された農家は23%に留まります。
さらに、事業終了後には農業普及員の訪問、操作支援、費用補助もなくなりました。統計分析でも、農業サービスによる指導、病気に関する研修、スマートフォンの提供は、継続利用と正の関係を示しています。
研究者たちが越えた最初の壁は、研究室と畑の差でした。次に現れたのは、AIと生活条件の差でした。
オフラインで動く軽量モデルを作っても、端末そのものがなければ使えません。認識精度を上げても、操作で迷ったときに助ける人がいなければ離脱します。技術だけでは埋められない空白が残っていました。
ただし、利用停止のすべてが失敗だったわけではありません。
調査では、ヌルを使ううちにキャッサバモザイク病を自分で見分けられるようになり、以前ほどアプリを必要としなくなった農家もいました。
2020年の研究でも、ヌルには診断だけでなく、症状を見せながら知識を伝える教材としての可能性が示されています。
AIサービスは、利用回数が増え続けることを成功と考えがちです。しかし、利用者が知識を身につけ、自分で判断できるようになった結果として利用が減るなら、それは単純な離脱ではありません。
また、病害診断は毎日必要とは限りません。栽培初期の感染株の発見や、収穫時の挿し穂選別など、判断が必要な時期だけ使う道具にもなります。
プラントビレッジ・ヌルは、一人の天才が短期間で作ったアプリではありません。
ヒューズとサラテが、専門知識を誰もが使えるようにするプラントビレッジを始めた。ラムチャランとマクロスキーが、畑の画像を集めてモデルを作った。レッグらIITAの専門家が、病気の知識と現地での検証を支えた。グーグル(Google)のテンソルフロー・モバイルチームも技術面で助言した。その後、国連食糧農業機関(FAO)、WAVE、各地の農業普及員が、農家の手元へ届けました。
その過程には、二つの大きな落差がありました。
ひとつは、研究室で99.35%だったAIが、異なる環境では31.4%になったことです。チームは現実に合わせてデータを集め直し、モデルと端末実装を作り替えました。
もうひとつは、診断で人間を上回ったAIでも、事業終了後の継続利用が45%に留まったことです。こちらは、端末、操作、支援、利用時期まで含めて設計しなければ越えられません。
AIの性能は、出発点です。現場の光、土、端末、知識、人の支援まで引き受けたとき、初めて道具になります。
ヌルの物語は、その長い距離を記録しています。
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